音楽は、それを表現する人間そのものを表すと思う。

 そしてその音楽の表す「人」というのは、決してその一瞬のその人を
表すのではなく、その人がずっと一生かけて自分とは何たるかを見出そ
うとする姿勢、すなわち生き方を指す。
 このことは、人というものが、その瞬間に形容され得る個体ではなく、
時間を超えて、その人の一生を通じてはじめて評価され得るものだ、
ということと同義である。
それ故に、人は常に自分を修正しながら自分らしくあろうとすることが
許され、また現状と理想とのずれこそが生きている動機と捉えられる
こともしばしばであるように思われる。
そして、この人生という個人的時間的分布における問題が、音楽の演奏
においても、同列に議論され得ると私は考える。

 演奏家を見渡してみると、殊さらコーラスやオーケストラなどでは、
他の中に自らを没し、まるで主張など持ち合わせておらぬような顔を
しているのがいる。
またそれとは逆に、他の存在を踏み潰し、エゴを貫くものもいる。
この演奏の場面で見られる光景は、面白いことに普段電車に乗った時に
目にする光景と同じであることに気がつくだろう。
またそれはきっと人々の人生を見渡した時の光景とも一致してしまう
ように思われる。
こういったことは短絡的な形而上のアナロジーではなく、人間という
ものの真理が形骸化した側面として、共通であると考えられる。
このような人間の仕業に目をつむって瞑想と称しようと、はたまた
竹林の七仙の如く、蓮の上にバランスしようと、それは生き方の選択
であって、他人がとやかく口出しできる性質のものではない。
さらにこの選択の連続である生き方というやつは、自分にとっては
とても特別で、能動的な産物であるかのような錯覚を覚えるため、
もはや手のつけられないほど放っておいて欲しいものである。
例えそれが、大勢の生き方という光景の中のほんの一角にも満たない
もので、「つまらない」と伏されてしまうようなものであっても。

 音楽の演奏は、このような有象無象の、有形無形の生き方たちに
一つの人間の有り方の可能性として対峙する。この生き方たちを
『社会』と呼ぶこととすると、音楽の演奏は社会と対峙する。
演奏家は社会と対峙する使命を担っているのである。
社会は美談ではない。すなわちそれはかなり本能的な要素、人間の
生物としての根源の要素が相互作用する混沌としての固まりである。
もしここで演奏家が社会から目を背け、生き方の海の中に敗北して
いくことを選んだとすると、世の中の潮流という巨大な音楽的
かたまりの中の一角をなすに過ぎない。
One of them である。
演奏家は、社会という迷いと苦悶の海に、精神美という聖水と、
透き通った安らぎという、想像を超えた領域をもたらすことが
求められていると思う。
人に注目されることも、豊かな生活も約束されずに、演奏家とは
行き方という音楽の氾濫する社会に敢然と対峙し、人々に安らぎ
と喜びを与える職業であると思う。

人間そのものであるところの演奏家というものは、他の職業と
同じように存在しながら、同列に認識されながら、無償の尊い
使命を遂行しているのである。